山鳥坂ダム建設計画の基準となった昭和59年の流量

 山鳥坂ダムの計画は、昭和63年までの最近十ヶ年の一番渇水の年であるとして、昭和59年の流量が基準にされていますが、昭和59年の流量の記述には、信憑性のない点が多数あります。


 1)流量観測地点について
 2)6月下旬の洪水時の流量について
 3)水害について
 4)説明書(『山鳥坂ダムについて』)に掲載されたグラフについて


1)流量観測地点について 
 建設省は計画での流量観測地点は肱川橋下(大洲第二観測所)であると言っていましたが、この数字は『流量年表』の肱川大洲観測所(大洲第一観測所、菅田大竹)に記載されている数字です。肱川の流量、ダム放流量等から検討すると、昭和59年の流量は実際より多くなっていると考えられ、これをダム分水を計画する基準にするのは適切ではありません。
※観測所の位置については、トップページの地図をご参照ください。


2)6月下旬の洪水時の流量について
 昭和59年6月下旬の洪水時の肱川大洲観測地点の流量として、支流小田川(坊屋敷水位・流量観測所)
流量よりもはるかに小さい数字が記載されています。しかし、小田川の水は大洲地点よりも上流で肱川に流入するのですから、大洲地点の流量の方が小田川の流量より小さいということはあり得ません。下の図をご覧ください。

  

 下の図は『流量年表』と『地域気象観測降雨量』から作成したもので、小田川の坊屋敷観測所と大洲観測所の、それぞれの流域の雨量が同程度であった時の流量です。


このことからも、流量年表に記載されている肱川大洲地点の流量には疑わしいところがあると言わざるを得ません。

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3)水害について
 建設省四国地方建設局は、昭和59年には肱川の水害はなかったとしていますが、建設省河川局発行の『水害統計』には、被害のあった年とされている昭和51年よりも大きな被害が記録されています。
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4)説明書(『山鳥坂ダムについて』)に掲載されたグラフについて
 『山鳥坂ダムについて』に、ダム建設後は大洲地点の流量が少ない時にもこれだけ増えるというダムの効果を示すグラフが掲載されています(下図左)。しかし、このグラフにあるダム建設前の流量(黒い実線)は、山鳥坂ダム工事事務所から建設前の流量として出された数字(『流量年表』に記載されている数字)とは大きく異なっています。
 下図右は、ためしに左のグラフから「ダム建設前の流量」を取り出し(黒い実線)、『流量年表』に記載されている数字と比べたものです。建設省の説明の通りであるならば、黒い線と青い面の輪郭がぴったり重なるはずなのですが…。どちらかあるいは両方の数字の信憑性を疑わざるを得ません。


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※説明や図版を、近日中に追加掲載予定です。